顧問 | 名児耶 明 荒井 青荘 |
---|---|
名誉会長 | 土屋 春研 |
特別相談役 | 松野 光遠 浅田 春昶(聖子) |
会長 | 原 光笙 |
副会長 | 森廣 青寿 |
事務局長 | 鈴木 春瑛 |
常任理事:9名 理事:10名 幹事:7名
光荘会が認めた師範・同人をもって会員とする。
昭和3年 | 初代会長 岡田光荘が蒲田女塚に書道塾を開いたのが会の始まり。 |
---|---|
昭和30年 | 第1回光荘会書道展を東京美術倶楽部にて開催。 |
昭和39年 | 第10回記念光荘会書道展・記念祝賀会を東京美術倶楽部にて開催。 |
昭和41年 | 岡田光荘「藍綬褒章」を受賞。 |
昭和49年 | 第20回記念光荘会書道展を東京美術倶楽部にて開催。記念祝賀会を帝国ホテルにて開催。 岡田光荘は会長職を益田霞邨に引き継ぎ、名誉会長となる。 |
昭和55年 | 6月18日 初代会長 岡田光荘ご逝去。 |
昭和59年 | 第30回記念光荘会書道展を東京美術倶楽部にて開催。記念祝賀会を帝国ホテルにて開催。 |
平成元年 | 5月27日 2代会長 益田霞邨ご逝去。 9月 3代会長に浅田春荘が就任。 |
平成6年 | 第40回記念光荘会書道展を東京美術倶楽部にて開催。記念祝賀会を帝国ホテルにて開催。 |
平成12年 | 年末日をもって浅田春荘は会長職を引退。 |
平成13年 | 年初1月より、4代会長に荒井青荘が就任、浅田春荘が名誉会長となる。 |
平成16年 | 5月 第50回記念光荘会書道展を東京美術倶楽部にて開催。 10月 銀座セントラル美術館にて記念選抜展開催。記念祝賀会を帝国ホテルにて開催。 |
平成19年 | 2月 顧問 臼田甚五郎先生ご逝去。名児耶明先生に顧問にご就任いただく。 |
平成24年 | 12月2日 3代会長 浅田春荘ご逝去。 12月総会において、5代会長に土屋春研が就任、荒井青荘が名誉会長となる。 |
平成26年 | 第60回記念光荘会書道展を東京美術倶楽部にて開催。 |
平成27年 | 11月 選抜書道展をセントラルミュージアム銀座にて開催。 |
平成29年 | 12月総会において 6代会長に原光笙が就任。土屋春研が名誉会長となり、新体制が発足し現在にいたる。 |
光荘会創設者 岡田光荘先生のこと
「書道」編集長 麻生泰久
光荘会の創設については、前にも光荘会会報に書かせていただきましたが、会員の中には創設者の岡田光荘先生について、ご存じない方が今は多くなられたとおもいますので、重複を承知で触れさせて頂くことにします。 岡田光荘先生(明治26年~昭和55年)は、岐阜県長良川の畔山県村の出身です。岡田姓は先夫の姓で、再婚されて三谷姓となられましたが、岡田光荘はいわばペンネームです。
上京後、阿部梅荘に師事し、学書を始めたのが35歳の時といいますから晩学の方です。書道を学ぶ傍ら、漢詩を仁賀保香城に学びました。 師の阿部梅荘は、幕末から明治にかけて、詩書画に長じて名のあった長三州に学んだ人です。光荘の荘は梅荘の一字に肖ったものです。
しかし入門ほどなくして梅荘師を亡くしたため、今度は高林五峯に就きました。五峯は幕末の書家成瀬大域や柳田正齊とともに活躍した高林二峯の子息です。 五峯は中々厳格な指導で知られましたが、同門の兄弟子に加藤玉淵先生が居られました。その加藤玉淵先生に就いて書を学ばれたのが、光荘会二代目会長の益田霞邨先生です。因みに光荘先生の夫君三谷漱泉先生も東方書道会で活躍された方です。
岡田光荘先生の活動の場は、日本書道作振会、三楽書道会でしたが、その後、加藤玉淵先生のご縁からでしょうか、日本書道美術院に籍を置かれ、それ以後、光荘会の名が知られるようになりました。光荘先生は、自らは余り表には立たず、光荘会の運営に心血を注がれました。昭和39年の第10回光荘会展時には、会員2,500人を擁したといいますから、その手腕が知れようというものです。あの小柄な体軀の何処にエネルギッシュな力が秘められているのか不思議なくらいでした。
ところで、光荘会には六人衆といわれた益田霞邨、舟口桂荘、浅田春荘、磯部容光、平尾泉荘、佐藤如泉の実力者が居られました。この6人を光荘先生は巧みにリードして会を見事に運営されたのです。そうして六人衆はじめ幹部を自分以外の師の元で学ばせ、会の力量の向上を計ったのです。こんな芸当は誰にでもできることではありません。書道展がややもすると師風一辺倒になりがちな弊を懸念されての配慮だったのでしょう。
光荘会書道展の審査は第一回展から会側の人は一切関わらず、外部審査員を招聘して行われています。この情実を排し、客観性重視の姿勢は「言うは易し、行うは難し」そう真似のできることではありません。
岡田光荘先生の知名度は必ずしも全国区ではなかったかもしれません。しかし、こうした見識と人間性は、真の指導者として誇れる存在ではありませんか。そして何より喜ぶべきは、皆さまが学ぶのはその光荘会の会員としてなのです。
(麻生氏は平成三十年五月にご逝去されました。平成二十三年十二月発行「光友」にいただいた原稿より抜粋して掲載させていただきました。)
昭和30年東京美術倶楽部で第1回展を開催して以来、平成30年5月の第64回展まで途切れることなく続いている光荘会年一回の一大事業。 師範・同人・一般部・教育部が一堂に会した作品展示、外部から審査員をお招きして行われる師範・同人の審査、教育部による席上揮毫など年一回の社中展として会員の総力結集の場となっている。
日書展(日本書道美術院主催)、毎日書道展への出品者も多く、出品者を対象とした下見研究会を行っている。 「日本書道美術院」では、顧問、理事、評議員の役付役員をつとめる幹部をはじめ、漢字部・かな部・新書芸部の三部門で、一般部一科審査員・二科審査員・教育部審査員として75名が活動。「毎日書道展」では、漢字部・かな部・近代詩文書部の三部門で、審査会員、会員、会友として50名が活躍している。
光荘会では、漢字と仮名を並行して学んでいる。 師範研究会年間10回、同人研究会年間7回を開催している。